吃音に関心を向けないこと

うも、リュウです。

 

 

吃音者がなぜ常に

吃音で苦しんでいるのか、

 

その理由の1つは

これなんじゃないか

というものを発見しました。

 

 

それは、

 

吃音以上の関心事がないから

 

というものです。

 

 

なぜ吃音という問題が

常に頭の上に来るのか

というと、

 

吃音という問題が吃音者に

とっての最大の関心事に

なっているからです。

 

 

言い換えると、

 

吃音以外に関心を持つものが

ないということなのです。

 

 

ちょっと例えが

残酷かもしれませんが、

 

もしあなたが余命半年の病に

冒されていたとしたら・・・

 

 

きっと残された日々を

毎日一生懸命に生きようと

すると思いますし、

 

これまで出来なかったことを

最後にやろうと奮起するはず

ですよね。

 

 

そんな半年しか命が

残されていない状況で、

 

やりたいことはあるけれど、

 吃音があるから無理だろうな

 

なんて果たして言うでしょうか?

 

 

確実に半年後には命が

果ててしまうのにも関わらず、

 

これまでと同じ思考パターン

行動パターンで毎日を

過ごすでしょうか?

 

 

半年しか命がないわけですから、

 

例え吃音で大恥を

かいてしまうことが

あったとしても、

 

もう深く気にすることは

ないのではないでしょうか。

 

 

もしも僕なら、

 

割り切って吃音なんか

00%気にせず

行動していくと思います。

 

 

めちゃくちゃ恥ずかしい

思いをしてもあと半年後には

いなくなるわけですからね。

 

 

要は、

 

この状況下における

最大の関心事は

 

残された時間を如何にして

 悔いなく精一杯生きられるか?

 

なので、

 

そこに吃音が介入する

余地が全くないのです。

 

 

吃音の事を考える余裕がない

とも言えますね。

 

 

そう、

 

つまり吃音で

悩むということは、

 

それだけ心に“余裕”

あるということなのです。

 

 

もちろん吃音という

問題は重たいことは

重々承知しています。

 

 

“余裕”と言ったのは、

 

吃音という問題に関して

直接「」を感じていない

という意味です。

 

 

本来、

 

人間にとっての

最大の関心事は

」であるはずです。

 

 

死ぬことは絶対に

避けられませんし、

 

この世に生きている我々は

全員まだ死を経験していない

ので未知の領域です。

 

 

未知だからこそ

強い恐怖を感じるのです。

 

 

だから、

 

我々にとっての最大の

関心事は確実に」という

概念であるはずなのです。

 

 

吃音でどれだけ

悩んでいても、

 

吃音でどれだけ

悩んでいなくとも、

 

確実にいつかは

」がやってきます。

 

 

何が言いたいかと言うと、

 

限りある人生の時間の中で、

 

吃音を理由にブレーキを

かけてしまうのは非常に

勿体ないということです。

 

 

もう一度言いますが、

 

我々にとっての最大の

関心事は本来「」であり、

 

現時点で残されている時間を

有意義に生きることに

関心を向けるべきなのです。

 

 

自分の人生をどう

 生きれば華やかになるか?

 

という“課題”を常に

自分の頭の上に掲げ、

 

実現のために日々行動

していくことが大切です。

 

 

僕はそう思っています。

 

 

吃音を理由にブレーキを

かけてしまうことを止めて、

 

是非あなたの

やりたいこと果敢に

戦していってください。

 

 

吃音でどれだけ悩んでいても

いつかは必ず死を迎えることに

なるのですから。

 

 

残された時間は有限です。

 

 

やりたいことやりましょう!

 

 

この記事を読んだら

是非感想コメントください。

 

 

それでは、

今回もありがとうございました。

 

 

バイバイ👋(・∀・)

 

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